小型犬の膝蓋骨内方脱臼(パテラ)の手術適応基準に関しては、2025年現在において未だガイドライン(獣医師間で統一された基準)の報告がなく、受診する病院によって手術適応基準の判断に大きな開きがあるのが現状です。このため、同じ膝の症状にもかかわらず、早急な手術を勧める病院があれば経過観察を勧める病院もあるという、飼い主にとって困惑してしまう事態がしばしば発生してしまいます。ガイドラインがないということは、手術適応基準の判断が、各獣医師の考え方に委ねられるということになりますが、判断に開きが出る一つの要因として、現在の膝蓋骨脱臼(パテラ)に関するコンセンサス(比較的多くの獣医師が合意する基準)の捉え方の差に原因があるように思われます。
この記事では、コンセンサスの内容や、判断の差が出る要因、現在のコンセンサスの限界や、当院での取り組み、当院での手術適応の判断などについて私見を交えて考察しています。
※膝蓋骨=膝のお皿
※膝蓋骨内方脱臼について詳しくはコチラ
目次
現在のコンセンサスにおける手術適応基準
以下のような基準があるのですが、主に赤文字部分の評価方法が曖昧なため、獣医師間で手術適応に至るタイミングに開きが出てしまいます。
- 小型犬成犬で、痛みや機能障害を有する、またはそれに発展する可能性がある場合
- 小型犬成犬の、軽度脱臼で無症状の場合は手術適応とはならない
- 中型犬以上では、無症状でも合併症発現の可能性が高いため早期の手術が推奨される
- 体格を問わず成長期に臨床症状を有する場合
上文の赤文字部分をどう捉えるかで判断が変わるのですが、痛みや機能障害に発展する可能性を正確に予測する方法はなく、また、無症状なのか症状に気づけていないだけなのかを判別する方法も確立されていません。さらには中型犬以上とはあるものの犬の体重による明確は区分や体格(痩せ型〜肥満型)、運動量や性格などは考慮に含まれておらず、そのために赤文字部分の捉え方に差が生じやすく、それがそのまま手術適応基準の差につながってしまいます。もちろん各種検査や獣医師個々人の経験をもとに可能な限り最善の判断に努めてはいるものの、『予測』の域を出ることはできていません。『予測』が判断の根拠となっているため、冒頭の、同じ膝の症状にもかかわらず、早急な手術判断から経過観察までの大きな差となると考えられます。
しかし、手術を受けるコ達にとっては、手術の際の緊張や痛みも、手術を受けれなかった場合の痛みや非快適も、どちらも大きな問題です。そのため予測の精度をあげる事は我々獣医師にとっても大きな使命ともいえます。
次に、『予測』に使用されている一般的なサインをまとめてみます。これらのサインが多ければ多いほど手術適応となる確率が増えていきます。
痛みや機能障害に発展する可能性を予測するサイン
- 遊んでいたのに急に遊びを止めてしまう
- 脱臼した際の疼痛反応や恐怖反応が強い
- 一日に頻繁に脱臼し足を挙げてしまう
- レントゲン検査での骨の変形程度
- 触診による4段階のグレーディングや脱臼の感覚
痛みや機能障害が既に生じているサイン
- 左右の後肢(もも)の太さが異なる(重要)
- あまり遊ばなくなる、散歩に行きたがらない
- 散歩中に急に立ち止まって歩きたがらない
- 片方の後肢だけ震えている
- レントゲン検査での関節内の炎症初見
- 触診時の疼痛反応
当院でも上記のサインの評価を行いながら、性格や年齢、好きな遊び、飼い主さんの考え方などを加味し、コンセンサスと照らし合わせながら手術適応の可否を決定しているのですが、それでも、術前の『予測』と術中の『実際』に差を感じることが少なからずあります。やはり『予測』で最適な手術適応基準を作るには限界があるように思います。
予測での判断が難しい例として、当院での実際の4例をご紹介させていただきます。初めの1症例は、コンセンサスと比較するとやや早期の手術を行なった例で、次の3症例が、それぞれバラバラな病期に来院されコンセンサスに従って手術を行った例の術中所見を比較したものです。
初めの1例(症例A)
活発で遊び好きの1歳の男の子の膝の骨の写真です。成長とともに、特に痛がる様子はないものの遊んでいる最中に脱臼する回数が増え、遊んでいたかと思うと時々膝を見つめるようになったと来院されました。触診の感触、性格や年齢、好きな激しい遊びを続けさせたいという飼い主さんの想いから、早期の手術を決めた例ですが、注目すべき点は、早期ゆえに膝関節の骨のダメージが全くない点です。黄色い丸で囲まれた溝は、膝蓋骨が本来関節する大腿骨の関節面の溝なのですが、スケートリンクよりも摩擦係数が少ないツルツルとした軟骨で覆われていて、この上を膝蓋骨が滑るように関節する限りは、膝をどんなに動かしても骨へのダメージは起こりません。
膝蓋骨が脱臼するようになると、このツルツルとした溝から膝蓋骨が外れてしまい、溝周囲の骨とゴツゴツと擦れ合うように接触してしまうことによって生じる摩擦が骨へのダメージとなり、骨の潰瘍や炎症、それに引き続き、痛みの原因となる滑膜炎などの合併症が発生してしまいます。
次の3例(左:症例B、中:症例C、右:症例D)
それぞれ発症から異なるタイミングで来院された症例です。コンセンサスを含めて各種慎重な検査と協議の結果、手術に至った3例の術中写真です。黄色い丸で囲まれた領域で骨のダメージが観察されます。写真の左→中→右に行くに従ってダメージが大きくなっていますが、一般的に予測に使用されるサインからはダメージの程度を正確に『予測』することが難しい事が実感できる例となっていると思います。
- 症例B:痛がる様子はないが、時々散歩中に膝の臭いを嗅ぐようになった症例
- 症例C:時々足を気にしたり、遊んでいる最中に遊びをやめてしまうようになった症例
- 症例D:昔は痛がってたけど最近は痛がらない。しかし、少しガニ股で歩くようになった症例
軽い臨床症状であっても骨のダメージが既に始まっている事(症例B)、痛がる様子がある場合には骨のダメージが強いことに加えて炎症反応も認められている事(症例C)、慢性例では炎症反応は弱まっているものの骨の変化が強く歩様様式の変化が起こっている事などがわかります(症例D)。
現在のコンセンサスの限界
痛みの表現方法や、運動の仕方によって症状の出し方が多彩で、来院時期もまちまちとなるため、ある程度骨のダメージが進行してからでないと診断できていない現状があります。
症例Bの術前評価のレントゲン検査では関節内の炎症所見は認められず、触診によるグレード分類も4段階中の1と軽度であり、これらの所見からは手術適応の決定はできません。また、臨床症状も軽く(痛がる様子はないが、時々散歩中に膝の臭いを嗅ぐようになった)、この症状からも痛みや機能障害に発展する可能性を予測することは難しく、現在のコンセンサスでは手術適応する獣医師は少ないと思われます(当院で手術適応となった理由は後述)。症例C、症例Dでは触診やレントゲン検査にて異常が確認されたためコンセンサスに従って手術適応となっています。3例の比較においては、現在のコンセンサスで判断する手術適応の時期では既に相応の痛みや骨のダメージが生じてしまっているコ達が少なからずいる可能性が見えてきます。
獣医療では、患者本人から違和感や軽度の痛みなどの初期症状を正確に聴取する事が難しい場合が多く、また、痛みに対して我慢強いコ達もたくさんいます。そのため、ある程度ダメージが進行して症状が出てきた後に、飼い主や獣医師によって発見されるという特徴があります。痛みの有無や予測を主軸にしている現在のコンセンサスでは、膝の中で起こっている問題の初期を拾うことが難しい可能性が指摘されます。不必要な手術を避けつつも、可能な限り骨のダメージの少ないうちに問題を早期発見し、適切な治療に繋げる事ができる手術適応基準の追求が、とても重要な課題となっています。
当院での取り組み
コンセンサスの限界への対策として、当院では、痛みがまだない又は非常に軽微な段階の膝蓋骨脱臼症例に対して積極的な関節エコー検査推奨の取り組みを始めています。
早期発見という観点に絞れば、関節鏡やCT検査などの優れた検査法が獣医療でも既に利用可能です。しかし、これらの検査には全身麻酔が必要であり、まだ臨床症状が非常に軽い初期の段階では躊躇されがちです。こうした背景の中、現在、獣医整形外科学の一部で関節エコー検査が積極的に取り組まれるようになってきています。関節におけるエコー検査はまだまだ新しい分野ではありますが、麻酔を使わず、傷も付けずに実施できる点で圧倒的に動物に優しく、初期検査に含めるには最適な検査方法であると考えられます。こういった特性より、当院では積極的に関節エコー検査を行いながら、最善の手術適応の時期の追求に努めています。
エコー検査の利点
膝の骨の関節エコーを下に示します。膝蓋骨は、このM字型の溝の上を滑るように動いています。注目すべきは関節エコー検査ではわずか数ミリにも満たない関節軟骨のラインまでしっかりと描写することができる点にあり、膝蓋骨の脱臼によって生じる骨のダメージを他の検査法と比較しても鋭敏に検出することができるといわれています。
また下の写真で表すように、大腿骨滑車角度(SA値)を求める事によって、膝蓋骨の脱臼のしやすさを予測することも可能なため、他の検査と組み合わせることで予測的中率を上げることが期待されていています。
エコー検査の実際
膝蓋骨や関節包、膝蓋骨脱臼時に最も障害を受ける滑車稜(M字の頂点)の外側も肉眼所見と変わらないような情報を得ることができます。
現在のコンセンサスには関節エコー検査所見が含まれていないのですが、関節エコー検査で得られる情報は多く、さらにはその情報が無麻酔、無痛で得られる点を考慮すると、手術適応基準を決定する上ではなくてはならない検査方法と思えます。実際の上述した症例Bでは、関節エコー検査での情報がなかった場合、現在のコンセンサスでは手術適応を判断するのはかなり難しいと思われます。しかし、関節エコー検査によって骨のダメージが確認されれば、痛みに発展する可能性が予測できるため、ダメージがより少ない初期の段階で手術適応の判断ができるようになります。これは、関節エコー検査が与えてくれる最大の利点といえます。
最後に、関節エコー検査を含めた当院の手術適応時期に関す2025年現在の考えをまとめてみます。
当院での手術適応基準
- レントゲン検査における関節内炎症所見
- 関節エコー検査における骨の障害の有無
- 触診検査における脱臼時の強い抵抗感
- 脱臼に痛みがある場合(飼い主が痛みがあるとみている場合も含む)
- 遊びや散歩に夢中になれない程度、頻度の脱臼
上記に、愛犬の年齢や性格、好きな遊びや飼い主さんの価値観を掛け合わせて判断。
<飼い主の価値観>
- 臨床的なこと:現時点の痛みや不便の有無を重視など
- 組織的なこと:症状に関わらず骨の障害の有無、進行抑制(将来リスク)を重視など
脱臼があっても何ら問題もなく元気に楽しく生涯を暮らしている小型犬が多いのは事実です。手術は精神的にも身体的にも大きな負担となるため、脱臼=手術であってはならないのは確かかと思います。しかしながら、同じような脱臼であっても骨のダメージが強く、将来のリスクを抱えていたり、好きな遊びもできなくなってしまっているコ達もたくさんおり、これもまた大きな負担といえます。この両者の違いを見極めようとする努力を、飼い主、獣医師間で行いつつ、愛犬のために最善の選択ができるようしっかり協議を行うことで、その子その子に合った最適な手術適応時期が決定できるものだと考えます。